ねがいごとひとつだけ
 
 
 
 
 
「こんにちは……」


8月も半ば過ぎ。
羽ヶ崎の海岸沿いに立つ喫茶・珊瑚礁。
僕とサユリ、いや僕と彼女と孫の瑛の店。
実は今日は、貸切で臨時休業になっている。
おずおずと開けられた店のそのドアから姿を現したのは、瑛が通う羽ヶ崎学園の同級生のお嬢さんだ。
直接紹介してもらったことはないけれども、休日に2人で出掛けた帰りに、店の目と鼻の先の海辺で会っているのを何度も見かけたことがあるから、間違いはないだろう。こんな老いぼれになっても、まだまだ耄碌したつもりはないのだからね。


「あ、あの! 初めまして。わたし、佐伯くんの同級生の……」
「ええ、瑛からお噂はかねがね。それに…」
本当は初めましてではないんですがね、という言葉は、胸の中で呟くだけにしておこうか。
カウンターの向こうで聞き耳をたてている瑛の奴に、余計なことを言うなと後でどやされるだろうから。
「……それに、何でしょう?」
チャーミングな瞳に不思議そうな色を覗かせる彼女に、僕は小さく首を振る。
「いいえ、なんでも。それよりも、こんな素敵なお嬢さんとお友達だなんて、どうしてなかなか、瑛の奴も隅におけない」
「そ、そんなこと……」
赤くなって俯くさまが、とても可愛らしい。
ふむ、これでは瑛でなくてもイチコロだろうな。
「じいちゃん、つまんないお世辞はいいから座っててよ!」
たまりかねたような声がカウンターの向こうから飛んできて、僕は肩をすくめる。
お嬢さんと視線を見交わせて微笑みあった。


「どうぞ、かけてお待ち下さい」
今日のために特別に設えられたテーブル席に案内して、座るように勧める。
「あの、今日はお招きいただいてありがとうございます」
そう言って、お嬢さんは、抱えていた紙袋から包みを取り出して差し出してくれた。
小ぶりの籠に飾られた、とりどりの可愛らしい花々。
「えっと、お誕生日、おめでとうございます!」
……そう、それが臨時休業の理由だ。


8月17日の今日、僕はまたひとつ歳をとる。もう数えるのも億劫な程の年齢になってしまったんだけれども、祝われることを疎ましく思うほどには、ひねくれた年寄りではないつもりだ。
「やあ、これは素敵だ。ご丁寧に、ありがとうございます」
「実はこれ、わたしが作ったんです。バイト先がお花屋さんなので。アンネリーって言うんですけど」
「ああ、ウチの店でもよく切り花を頼んでいる、あの」
「はい! ……と言っても、こちらのお店のお花もこのフラワーアレンジメントも、店の先輩にアドバイスしてもらって作ったんですけど。その先輩に比べたら、わたしなんて、まだまだで」
そう嬉しそうに話す顔を見ただけで、ピンときた。
こういうのはね、そう、亀の甲より年の功、と言うのだろうなあ。
そこへ、近づいてきていたウチのバリスタが、あろうことかお嬢さんに手刀をくらわしてしまう。僕が止める間もないほどに、素早く。
「イタッ!」 
「これ、瑛! 女の子になんてことするんだ」
「もう、佐伯くん、ヒドいよ!」
「ウルサイ。いつまで突っ立ってんだよ。ホラ、さっさと席に着け。もう料理あがってるんだからさ。早くしないと冷めちゃうから」
「はあい」


……そうして始まった、ささやかな誕生日パーティー。
手前味噌のようで少々気が引けるけれども、瑛が出してくれるうまい食事と珈琲、そしてデザート。その間途切れることのない、心地よく弾む会話。
お嬢さんは天性の聞き上手と言うんだろうか、ついつい長々と昔話をしてしまう羽目になった。
まあ、なんだ、もともと年寄りというのは、だいたいが話好きなものだけれどもね。


絵描きになろうとした僕のこと。
フォークのシンガーソングライターだった僕の妻のこと。
瑛には話したことのある、僕らの馴れ初め。
店で起きたあれこれ。
瑛の幼い頃のこと(本人は渋い顔をしたけれども)。
そして、彼の両親の若い頃のこと。

ここ数年は両親に反抗的だったとは言え、やはり彼らの話は珍しかったのか、瑛はそっぽを向いて興味なさそうなフリをしながらも、耳だけはしっかり僕の話を聞いていたようだった。

そしてそのお返しとばかりに、お嬢さんから、瑛の学校での様子を聞かせてもらった。


学校の中庭で昼寝から起きた後、寝ぼけて呟いていたというセリフ。
クリストファーという関西弁を話す外国人の同級生と、珈琲の話をしていること。
ハリーという同級生(こちらは日本人だそうだ)と仲が良くて、ギターを教わっていること。
修学旅行でお嬢さんと二人、あちこちまわった時の話。枕投げの必殺技のおかしなネーミング。

店のことも承知の上のお嬢さんだからこそ知っている、本当の瑛の話ばかりだった。


いつもいる店内ではあるけれども、久々に、商売抜きでよく話し、よく笑った。
極上と言える素晴らしい時間。


しかし、楽しい時間はあっという間に過ぎるものだ。
ーーサユリとの日々がそうであったのと、同様に。


『夕ご飯までに帰るって言って来ちゃったんで、そろそろおいとまします』


そうお嬢さんが切り出したのを汐に、三人で店の外へ出た。
ドアを開けると、ベルの音と共に、すぐに生暖かい空気が僕らを出迎えてくれる。既に傾きかけた太陽が、辺りを夕方色に染め上げていた。
「それじゃあ、お嬢さん、今日はどうもありがとう。無理を言って申し訳なかったですがね、おかげさまで楽しい誕生日になりました。せっかくの夏休みに、こんなじいさんと過ごして退屈だったでしょうが」
「とんでもない! すっごく楽しかったです。またお邪魔したいくらい!」
心底からのものと信じられる言葉が即座に返ってきて、年甲斐もなくドキリとして、そして、嬉しくなる。


……本当に、素直で良いお嬢さんだ。


「よろしければ、いつでもどうぞ。……おい瑛、おまえも今日のホスト役として何とか言ったらどうだ?」
水を向けると、素直でない孫は、わざとことさらに醒めたような表情を作る。
「何とかって……別に。タダメシ喰わせてやったんだから、こっちが礼言われてもいいくらいじゃん」
「おまえはまたそんなことを……やれやれ、一体誰に似たんだか」
「そりゃやっぱさ、隔世遺伝じゃないの?」
「まったく、減らず口ばっかりだ。……こんなやつですがね、僕にとってはいくつになっても可愛い孫です。これからも仲良くしてやって下さい。よろしくお願いしますよ」
「はい!」
「可愛っ?! って、余計なこと言わないでよ、じいちゃん! だいたいどっちかって言うと、俺の方がよろしくしてやってんだからさ。……おまえも用が済んだんだから、早く帰れよ」
瑛の憎まれ口には慣れっこなのだろう、お嬢さんは気を悪くしたふうもなく、声を上げて笑った。
「言われなくても、もう帰りますよーだ。……それじゃあ、失礼します。今日はありがとうございました。とっても楽しかったです」
「こちらこそ」
僕の返答に、お嬢さんはニッコリすると、今度は瑛の方へと向き直る。
「……佐伯くんも、ありがとう。珈琲とデザートはもちろん、ご飯もスッゴく美味しかったよ」
「っ! ……ああ、うん、まあな。そりゃな。当然だけどな」
僕はやや呆れて微苦笑する。
まったく、なんてぇ言いぐさだ。
けれど。
「それじゃあ、失礼します」
丁寧に頭を下げて帰ろうとするお嬢さんを見て、瑛があわてた素振りを見せたので、僕は助け舟を出してやる。
「おまえ、送って差し上げなさい。8月とは言え、もう立秋過ぎて日が短くなってきたんだ。女の子を一人で帰らせるもんじゃあない」
「! しょうがないな。じいちゃんがそう言うなら……」
瑛はほい来たとばかりに、僕の提案に乗っかってきた。とは言うものの、態度とはうらはらな言葉で。
それに対して、
「いいよ。まだ明るいし、ウチまでそんなに遠くないし」
と、胸の前で片手を振るお嬢さん。
だがしかし、瑛は人差し指を立てて彼女に突きつけて言った。
「目上の人間の言うことには逆らうな。いいから待ってろ。俺、ちょっと支度してくるから。……いいな? 待ってろよ? まだ帰るなよ!」
釘を刺すと、身を翻して店内に戻っていく。
その後ろ姿を見ながら、僕はまたもや苦笑する。
まったく、人をダシにして……世話の焼ける子だ。ひねくれてるにも、ほどがあるだろうに。
「すいませんね。あれの扱いは難しいでしょう。知り合ってから今まで、たびたび嫌な思いをされてきたんでしょうな」
するとお嬢さんは、唇の前に人差し指を当てて、内緒ですよ、チョップが飛んできますから、と断りを入れてから続けた。
「……最初はそうかなって思いました。なんだか色々屈折してるなって。でも、ホントはすごく優しいですよね。とっても努力家で、お店のこと大事に想ってて。今時珍しいくらい、おじいちゃん思いだし」
「ありがとう。そう言ってもらえると、安心です」
「それに……色々相談にのってくれたり」
「……そうですか。あいつがね……」
「わたし、すごく助けられてるんですよ」
「それはそれは、あんなやつでも、少しは役に立っているようで何よりだ」
「にしても、佐伯くん、すごくうらやましいです。こんなに仲のいい、素敵なおじいちゃんがいて……」
ウチ、おじいちゃんは両方とも亡くなってて、おばあちゃんしかいないから、と呟く。
少し寂しそうな彼女に、僕は微笑んで見せた。
「僕もね、お嬢さんのような可愛らしい孫が増えたら、とても嬉しい。……瑛ほどじゃないだろうけどもね」
「えっ?」
それってどういう…と、お嬢さんが続けようとしたところで、タイミング良く瑛が戻ってきた。店の制服から、普段着に着替えている。
「お待たせ」
「ううん、わざわざごめんね」
「そうだな、今度三倍返しな」
「ちょっと、がめつ過ぎだよ!」
「ハイハイ、冗談だ。……じゃあじいちゃん、ちょっと行ってくる。なんなら先に家戻っててもいいから」
「わかった。しっかり送り届けるんだぞ」
「おおげさ!」
鼻をならす生意気な孫と、お嬢さんを見送る。
小さくなっていく後ろ姿を眺めつつ、若い二人は何を話しながら帰るのだろうな、などと考える自分がおかしくて、少し笑った。
実際のところ、僕らの若い頃と、そうそう変わるもんでもあるまいに。
見栄っ張りなあいつのことだ、きっと、先ほど身内の前では照れくさくて言えなかった感謝の言葉も、伝えていることだろう。


いったんは店のドアの取っ手に手をかけたものの、そのまま戻るのが少々惜しい気がして、僕は浜辺へと降り立った。
振り返ると、店と灯台が目に入る。どちらも、その先に広がる美しい海と同じくらい、僕の人生の大半を見つめ続けてくれているものだ。

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