が来る前に



西のほうでは台風が暴れまわってるって、さっき見たニュースで知った。
こっちのほうは大丈夫かな。
洗い物を一まとめにして、流し台で一つ一つ洗っていたら、瑛くんが忌々しそうに咳払いをした。
「おまえ、しごと、おそすぎ」
こどもに言うようにひとつひとつゆっくりと嫌味を言う。
だけど、すぐに私の隣にたって洗い物を手伝ってくれる。こういうところが、優しいんだなって思う。

「あのさ、瑛くん」
洗い物は完全にまかせて、私はおしぼりを畳み始めた。まずは三角に折って、そして両端をおって、くるくるくるくる。
マスターさんが唯一、「小波さんのおしぼりは良いです」と誉めてくれるから、これだけは自信をもって作業を進めれる。
瑛くんも、私のおしぼりたたみにはケチをつける事無く、「あん?」と素直に聞き返してくれる。

「台風。大丈夫かな」
「大丈夫なんじゃね?こっちの方には進路を変えない限りはさ」
「うん」
そっか。瑛くんが大丈夫って言うんだもん。大丈夫だよね。
ほっとして思わずにへらーと笑ったら、ぴしっと水が頬にかかった。
あ、また「バカっぽい顔して笑うな」とか言いたいんだ。そう思って、思わず睨むと瑛くんはぷいと目をそらした。それも、何故か頬を赤くして。

瑛くんはそれきり、何も言わずに皿とグラスを洗った。
そしてクロスで一つずつ丁寧に拭き始める。おしぼりを全部畳み終えた私には、もうやる仕事が無い。
「瑛くん…何かお仕事ありませんか?」
ちょっとへりくだって聞いてみる。
「仕事ね。じゃあ…」
少しの間、沈黙。手を後ろにくんで、私は瑛くんの指令を待つ。
「ごはん作って」
「ごはん?」
「そっ。ごはん」
「……」
「俺と爺ちゃんと美奈子の分。もうすぐ爺ちゃん帰ってくるし。店が暇なうちに、何か腹に入れておきたい気分なんですけど」
「ええー」
ごはんねえ。ええ、何作ればいいんだろう。
「オムレツ。美奈子さん特製のオムレツだな。はい、決定」
「ええー」
いつ特製にしたんだろう。今まで賄いと言えば、マスターさんが作ってくれるのが殆ど。
私は、マスターさんが作ってくれるケチャップライスが良いんだけど。
「玉子はあっちの冷蔵庫の方から使って。手前の方にいれたのは新しいやつだから。悪いけど、古いのをね。あと、生クリームは結構使ってもいいから」
こういう時ほど、けっこう声が優しかったりする。知らないぞ。すごいのができちゃっても。マスターさんがお腹壊して、店休んでも責任とりませんよ。
瑛くんに言われるまま、業務用冷蔵庫の扉をあける。玉子を4つと冷凍しておいたご飯を取り出す。
少しくたっとなったエシャロットも。ベーコンはちょっと拝借。じゃあ、料理にとりかかりますか。
そう気合をいれて腕まくりをした時だ。「ただいまあ」とマスターさんの声が聞こえた。

「二人とも留守番、ご苦労でした」
買出しから戻ってきたマスターさんは、買い物袋をテーブルの上にぽんと置いた。
「あっ、そうそう。台風、こちらにやってきそうですよ」
「えっ?!」
私達は同時に声をあげた。
「テレビじゃ何も言ってなかったけど」
「テレビは遅いんですよ。あんなの、あてにはなりません」
ぴしゃりと、マスターさんは切り捨てた。
「感じるんです。波の音を聞けば。うみどりだって教えてくれる」
「すごいですねえ」
大きく頷きながら、私は卵をわる。
マスターさんは「いえいえ」と頭をかきながら、壁にかかった絵を眺める。

「戸締りはしっかりするとして、後はこの絵をいったん引き上げるとしますかね…」
20号ほどの小さな油絵。波の立つ海に白い浜。その中に蒼いワンピースを着た女の人が佇んでいる。
埃がうっすらとかぶった額縁に指をかけると、マスターさんは大事そうに絵を撫でる。
「ついでに…ちょっと掃除もしてあげないとね」
指についた埃を眺めて、少し恥かしそうに笑う。

「あそこに描かれてる女の子」
瑛くんが私だけに聞こえるくらいの声で話しかけてくる。
「うん?」
「あれ。うちのばーちゃん」
「えっ?ばーちゃん…って」

爺ちゃんの奥さんって事。それだけ言うと、瑛くんはキッチンを離れる。
「そっか…」
ボールの中の玉子をかき混ぜる。小さな泡を立てながら、玉子は黄色く溶けていった。







fin

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